コロ日記

浅い知識で書き散らかしています。

「千と千尋の神隠し」と「夏目友人帳」から「名前を奪うことによる他者支配」を考える

昨日は金曜ロードショーで、ジブリアニメ「千と千尋の神隠し」が放映されていた。
この作品の序盤に、主人公の荻野千尋が、湯屋の主人・湯婆婆に雇ってもらえるよう頼みに行く場面があるのだが、千尋は湯婆婆に名前を奪われ、新たに「千」という名前をつけられてしまう。
彼女は自由をも奪われ、湯婆婆に支配(雇用)されたことになる。

ハクも既に湯婆婆に名前を奪われていた。
そして彼は、千尋に「自分の本当の名前を決して忘れるな」と忠告する。
彼は自分の本当の名前を忘れてしまっており、支配から逃れられない状況にあったのだ。

これを見ていてふと「夏目友人帳」というアニメを思い出した。

妖怪が見える少年・夏目貴志は、ある日祖母の遺品の中から「友人帳」を見つける。 「友人帳」とは、彼の祖母・レイコが妖怪をいじめ負かした結果、奪った名を集めた契約書だった。 以来、名を取り戻そうとする妖怪達から狙われるようになってしまった夏目は、とあるきっかけで自称用心棒となった妖怪、ニャンコ先生(斑)と共に、妖怪達に名を返す日々を送り始める。 Wikipediaより)

どうやらどちらの作品でも、【名前を奪われること=支配されること】であるようだ。

ちなみに、さっきから名前を「奪う」という言葉を使っているが、これは名前を「取り上げる」のと必ずしもイコールではない。
夏目友人帳の作中では、名前を「知っている」だけで、その妖怪を召喚できるという設定になっている。
だから、【名前を奪われること=名前を知られること】だと言える。
そして、【名前を知られること=支配されること】なのだ。

実際、日本の古い言い伝えには、『妖怪に名前を知られるとその人間は呪われてしまうが、反対に妖怪の名前を知ったときは、その妖怪を支配したり使役したりできる』という話がある。
千と千尋の神隠し」と「夏目友人帳」の設定もこうした伝承の影響を受けていると考えられる。

と、妖怪についてつらつらと書いてきたが、実は昔の日本では、本名を隠す相手は妖怪だけではなかった。
日本を含む東アジアには、他人に対して「相手の本名を呼ばない」「自分の本名を教えない」という習慣があったという。
本名は、中国では「諱(いみな)」日本では「忌み名」などと呼ばれ、口にすることを避けられていた。
だから人々は、「諱(いみな)」の代わりに「字(あざな)」という仮名を名乗って生活を送っていた。
本名を知っているのは自分の親くらいで、しかも本人も、元服まで自分の本当の名前を知らされなかったという。
当時、目上の人の本名を呼ぶことは極めて無礼なことだったので、子どもは親の本名を知っていても、親を本名で呼ぶことはめったに無かった。
日本ではこの習慣は明治時代の戸籍令によって途絶えたが、アジアの一部地域には未だに残っている。

かの有名な坂本龍馬の「龍馬」も実は本名ではない。
彼がもう少し長生きしていたら、私たちは彼を本名の「直柔(なおなり)」という名で呼ぶことになっていたかもしれない。

名前を知ることでその人を支配するという考え方は、本当はとても普遍的な考え方だ。
こうした考え方を反映した逸話や伝承は、アジアのみならず世界中に存在している。

たとえば、西洋には「悪魔の名を知っていると悪魔を召喚できる」という言い伝えがある。
聖書の一説には、「わたしは主、あなたの名を呼ぶ者 イスラエルの神である」という文言がある。
古代ギリシアの叙事詩「オデュッセイア」では、英雄オデュッセウスが怪物に捕まって名前を聞かれたとき、でたらめの名前を教えることで難を逃れたとある。
エジプト神話でも、「神々の本当の名前を知り、口にすることができれば、神々を支配できる」とされている。

人々が「本当の名前」をこんなにも隠したがるのはなぜだろうか。
まず、古来より【名前=ものの本質を表すもの】と考えられていた。
【人の名前=人の魂そのもの】であり、【人の名前を知ること=人の魂そのものを知ること】だった。

孔子の兵法には「彼を知り、己を知れば百戦危うからず」とあるが、これは「相手のこと、自分のことをよく知っていれば、危険な戦などない。」という意味である。
他者を知ることこそが、他者支配の根源なのである。

参照:
モーセの十戒から・・・・主の名を、みだりに唱えてはならない
怖いものに「名前」を付ける意味
映画『千と千尋の神隠し』における言霊文化とアニミズム
千と千尋の神隠しにおいて「名前」が意味するもの
昔の中国の人は何のために字(あざな)をつけましたか。…
夏目友人帳を知っているかたにお聞きします。…